産業・経済

木村 泰治:きむら たいじ (1870~1961)

木村 泰治:きむら たいじ (1870~1961)

大館市風呂屋町(現在の向町付近)に生まれ、体が弱いことが学業成績にも影響したのか、小学校卒業時には50人中の49番でした。1886年に東京英語学校に入学し、2年生の時には首席になりました。
1895年に内閣官報局に就職し、小説家の二葉亭四迷と知り合いました。二葉亭四迷に新聞記者への転職を勧められ、その知人の内藤湖南の招きで台湾に渡り、台湾日報の記者になりました。
1908年に台湾日報を辞めて、台湾土地建物株式会社を設立して、台北の都市開発に取り組みました。以後様々な分野に20数社を経営し、台湾随一の実業家に成長し、台湾商工会議所の会頭にまで登りつめましたが、岸信介商工大臣と対立して辞職しました。
その後に帰国し、福島県二本松市の岳温泉の開発に尽くしました。

木村泰治 年表
できごと
1870年(明治 3) 大館市風呂屋町に生まれる。
1886年(明治19) 上京し、東京英語学校に入学。
1895年(明治28) 内閣官報局翻訳課に就職。
1897年(明治30) 台湾に渡り、台湾日報の記者になる(のちに編集長に就任)。
1908年(明治41) 台湾日報を辞めて、台湾土地建物株式会社を設立。
1935年(昭和10) 発起人となり、大館駅前に忠犬ハチ公の銅像を建立(1945年、金属類回収令により撤収される)。
1937年(昭和12) 台湾商工会議所を設立(のちに会頭に就任)。
1944年(昭和19) 会頭を辞任し、帰国する。
1948年(昭和23) 福島県二本松市の岳温泉に住み、開発を進める。
1955年(昭和30) 岳温泉が全国7カ所の国民保養温泉の1つに指定される。
1961年(昭和36) 死去。

田村 松助:たむら まつすけ (1881~1958)

田村 松助:たむら まつすけ (1881~1958)

大館男子小学校高等科を卒業後、父の仕事を手伝っていましたが、1903年に大阪の住友鋳銅所に入り、2年ほど技術を学びました。
帰郷後、父の鉄工所を引き継ぎ、鉱山で使う機械専門に製品を作ることによって、業績を大きく伸ばしました。1944年に田村鉄工株式会社とし、取締役社長となって東北有数の大工場に成長させていきました。戦争中は、魚雷や弾頭などを作り、大館中学(現在の大館鳳鳴高校)の勤労動員隊を引き入れました。
1940年からは山瀬村長を1期務めており、村役場や小学校に用地を提供し、公共事業に多くの私財を投じました。
工場の技術者の中には、のちに大館工業高校の教員になって、専門的な技術を指導した人も多くいました。

田村松助 年表
できごと
1881年(明治14) 大館市岩瀬に生まれる。
1895年(明治28) 大館男子小学校高等科を卒業、父の仕事を手伝う。
1903年(明治36) 大阪に出て、住友鋳銅所で技術を学ぶ。
1905年(明治38) 家業の鉄工所を相続。
1918年(大正 7) 溶鉱炉を持つ機械工場を建設。
1935年(昭和10) 合資会社田村鉄工所を組織し、社長に就任。
1940年(昭和15) 山瀬村長になる。
1944年(昭和19) 田村鉄工株式会社に改組し、取締役社長に就任。
1958年(昭和33) 死去。

山田 定治:やまだ さだじ (1898~1983)

山田 定治:やまだ さだじ (1898~1983)

北秋田養蚕講習所に学び、1921年に大館町農会技術員になりました。1932年、大館にできた秋田県種鶏場の日本鶏飼育係助手に採用され、その後、県職員、大館鳳鳴高校事務長を務めながら、声良鶏・比内鶏・金八鶏の三鶏の飼育を行い、天然記念物への指定を働きかけました。その結果、1937年に声良鶏、1942年に比内鶏が国の天然記念物に、また1959年に金八鶏が県の天然記念物に指定されました。
退職後は、自宅に声良鶏の孵化場を併設し、1972年には施設を整備し「天然記念物秋田三鶏資料収蔵庫山田記念館」として開館しました。2010年には大館郷土博物館の敷地内に新築された「秋田三鶏記念館」がその役割を引き継いでいます。

山田定治 年表
できごと
1898年(明治31) 大館市常盤木町に生まれる。
1921年(大正10) 大館町農会技術員になる。
1932年(昭和 7) 大館にできた秋田県種鶏場の日本鶏飼育係助手に採用される。
1941年(昭和16) 県農林技手に昇格。大館中学(現在の大館鳳鳴高校)書記になる。
1960年(昭和35) 大館鳳鳴高校事務長を定年退職。
1963年(昭和38) 大館比内鶏・声良鶏保存会を結成して、会長に就任。
1964年(昭和39) 国・県・市の補助を得て、自宅に声良鶏孵化場を併設。
1970年(昭和45) 文化財保護法施行20周年記念式典で文化庁長官表彰を受ける。
1972年(昭和47) 「天然記念物秋田三鶏資料収蔵庫山田記念館」を開館する。
1974年(昭和49) 秋田県文化功労章受章。
1983年(昭和58) 死去。

石井 嘉右衛門:いしい かえもん (1754~1828)

石井 嘉右衛門:いしい かえもん (1754~1828)

嘉右衛門は、1754年に十二所に生まれました。1787年(天明7年)33歳の時に十二所の軽井沢を開墾したのをはじめ、餌釣、花岡、池内などの開墾を指導しました。その働きが認められて、藩の開墾役となり、各地の開墾を指導しました。旧田代町には、「嘉右衛門ぜき」という用水路が残っています。これは、はじめ藩の仕事として行われていましたが、途中から自分の費用で完成させました。このおかげで、133ヘクタールの新しい田ができました。今では近くの「重右衛門ぜき」と一緒になり、新しい農業にふさわしい用水路になって役立っています。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学校3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表は無し

岩沢 太治兵衛:いわさわ たじべえ

岩沢 多治兵衛:いわさわ たじべえ

太治兵衛は、今の大館市中町に生まれました。子どものころ、飢饉に苦しむ人々を見て、「一人の人間も飢えさせてはならない」と強く心に誓いました。
役所に勤めると、まず、飢饉にそなえて寄付を集め、米1800石(27万キログラム)を蓄えました。この米は、「戊辰の役」という戦争で町のほとんどが焼けたときに役立ちました。
また、ほかの人たちと協力して「田畑郷助」というしくみをつくりました。これは米やお金をためておき、生活に苦しんでいる人たちに与えようというもので、今でも「大館感恩講」として活動を続けています。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表は無し

大沢 和三郎:おおさわ わさぶろう (1803~1879)

大沢 和三郎:おおさわ わさぶろう (1803~1879)

釈迦内で生まれ、扇田で育ちました。当時(江戸時代)の扇田は、殿様や藩のえらい役人やその荷物などが通るたびに、人夫30人と馬20頭を差し出さなければならないという義務を負わされていました(御伝馬制度)。しかし、馬の持ち主が少なかったために、人々はお金を差し出していました。苦しんでいる人々を見かねた和三郎は、200両を寄付して、無尽講を開いたり、能代との交易によってたくわえを増やしたりしました。また、貧しい人たちに米を分けたり、子どもに学用品を与えたりしました。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表は無し

小林 徳兵衛:こばやし とくべえ ( ~1716)

扇田有数の富豪に生まれ、徳栄寺を開いて、弟をお坊さんにしました。寺の仕事の他に、開墾にも力を入れ、扇田神明社の南側や、倉下の田んぼを開きました。米代川の洪水から倉下の田んぼを守るための護岸工事では、達子森から倉下までの1.5Kmに人夫数百人を立たせ、大きな石を手渡して運ばせました。その際の賃金は、おけに入ったお金を一握りもらえるという支払い方だったので、人夫達は多く握ろうと競って集まり、工事も早く、安く仕上がったといいます。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表は無し

小松 多治右衛門:こまつ たじえもん (1824~1894)

小松 多治右衛門:こまつ たじえもん (1824~1894)

旧東館村独鈷に生まれました。おだやかな性格で責任感が強く、村人の信頼も厚く、33年間も村をおさめる肝煎をつとめました。荒れた林野を整理し、植林して木を売りその金をたくわえて村の財産を作り、学校を建てたり、飢饉の時に役立てたりしました。また、戊辰の役の際には、敵軍大将と直接交渉して村の焼きはらいをやめさせ、村人の生命や財産を守りました。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表は無し

桜庭 小右衛門:さくらば こえもん

有浦小学校のあたりの田は、近くの長木川や大茂内川から水をひいていましたが、水害や水争いがたびたび起こりました。それで大館用水を作る計画がたてられました。しかし、反対する農家の人も多くいました。
小右衛門は新しい農業を進めるために、区画整理も役立つと考え、計画の大切さを熱心に説きました。それで賛成する人も増え、工事が始められました。大きな戦争の後で苦労しながら工事を進めました。用水路をつくる工事は、1962年(昭和37年)に終わりましたが、区画整理が終わったのはその10年後でした。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表は無し

佐藤 文治:さとう ぶんじ (1823~1867)

1823年(文政6年)に旧早口村李岱に生まれました。
30歳代で地主役、早口村の長百姓(村のおもだった百姓)となるとともに、秋田藩庁開発方の世話役として開拓指導に専念し、早口近辺の田の開拓に大きく貢献しました。当時の様子などをくわしく日記に書いており、今も「文治日記」として残されています。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より 一部改変)

※年表は無し

田中 藤治:たなか とうじ (1842~1924)

田中 藤治:たなか とうじ (1842~1924)

藤治の家は、大館市舟場にありました。昔は、米代川を渡るのに舟が使われていました。それで、藤治は「いつでも自由に行ったり来たりできる橋をつくろう」と思いました。
村の人たちから寄付を集めて、工事を始めましたが、洪水で流されたりしたので工事が長引き、費用もかかるばかりでした。しかし、藤治は自分の財産を売って費用をつくり、橋を完成させました。
大正11(1922)年、県の橋となったとき、藤治の名字をとって「田中橋」と名付けられました。
今でも二井田への橋として重要な働きをしています。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表は無し

野呂 多一郎:のろ たいちろう (1835~1912)

野呂 多一郎:のろ たいちろう (1835~1912)

西館村水無の大きな農家に生まれました。村の世話人となり、村のために尽くしました。地力改良のための稲作用の肥料を工夫したり、「南部馬」を全戸に飼育させたり、麦やぶどうの集団栽培を取り入れたりしました。その業績は、現在でも小新田地区のぶどう栽培に受け継がれています。
1878年(明治11年)には、石川理紀之助らと秋田県農業の発展をめざして、第一回秋田県種子交換会を秋田市で開きました。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表は無し

三浦 八右衛門:みうら はちえもん ( ~1858)

二井田地区の田んぼを開くのに、三浦八右衛門の大きな力がありました。八右衛門は、山本郡鵜川の人ですが、のぞまれて、二井田地区の開墾の指導にあたりました。このときの工事の記録が残されています。「毎年200人もの人足(作業員)と、約2メートルのくい千本、俵ニ千俵」とあり、工事の大変さがわかります。
工事の途中で八右衛門は、病気で亡くなりましたが、息子の富吉が後を受け継いで、工事を完成させました。
このおかげで200ヘクタールの新しい田んぼができました。
村の人々は、この用水路を「三浦ぜき」とよび、八右衛門親子が住んでいたところを「三浦」と呼ぶようになりました。
その後、村の人たちは、水利組合をつくって用水路を大事にし、修理したり、つくりかえたりしながら利用しています。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表は無し