教育・福祉

日景 弁吉:ひかげ べんきち(1848~1919)

日景 弁吉の写真

大館市釈迦内に生まれ、藩校明徳館で学びました。戊辰戦争では、応援各藩の応接係とともに、海岸防備に従事しました。
1874年に釈迦内村にできた向陽学校(現在の釈迦内小学校)を、日景学校と改称し、のちに自分の所有地に新築しました。さらに、日景英学校を設立するなど教育に力を注ぎました。また、土地を切り開いて、釈迦内と立花、白沢と矢立峠を結ぶ道路をつくりました。このほか、機織りの技術を教える養成所の設立、養蚕( 蚕を飼い、糸をとること)、杉苗の栽培などの産業を興しました。
1879年からは県議会議員を12年間務めました。最初は自由民権派の秋田改進党に所属しましたが、のちに秋田中正党に移って政治活動をしました。晩年は、自ら開発した日景温泉で過ごしました。

日景弁吉 年表
できごと
1848年(嘉永元) 大館市釈迦内に生まれる。
1868年(明治元) 戊辰戦争では、応援各藩の応接係とともに、海岸防備に従事。
1874年(明治 7) 釈迦内村に向陽学校(現在の釈迦内小学校)が設立される。
1875年(明治 8) 釈迦内と立花を結ぶ道路をつくる。
1877年(明治10) 白沢と矢立峠を結ぶ道路をつくる。
1879年(明治12) 県議会議員に初当選。向陽学校を日景学校と改称。
1880年(明治13) 自分の所有地に日景学校を新築・移転。機業生徒養成所を設置。
1885年(明治18) 秋田県では初の藍綬褒章を受章。
1888年(明治21) 私立日景英学校を設立。
1919年(大正 8) 死去。

栗盛吉右衛門:くりもり きちえもん (1838~1914)

栗盛 吉右衛門の写真

大館市に生まれ、8歳の時に父が北海道で荒物屋を開いていた関係で、母とともに函館に渡りました。しかし店が火災にあったり、父が管理していた船が難破するなど不運の連続で倒産し、一時は姉とともにセンベイやアメの行商をして生活を助けました。父の死後独立し、1857年に大館に帰って呉服小間物屋“ 松前屋” を開き、一代で財を築きました。
自らの体験から、いかに才能があってもお金がなければ成功できないことを悟り、自分の財産を使って奨学金の貸し付けをするなどの育英事業を始めました。この事業は以後4代にわたり引き継がれ、栗盛教育団の解散後は財産のすべては大館市に寄付されました。洋館風の事務所は大館市立栗盛記念図書館として活用されましたが、老朽化のため取り壊され、跡地には現在の大館市立中央図書館が建てられました。

栗盛吉右衛門 年表
できごと
1838年(天保 9) 大館市馬喰町に生まれる。
1845年(弘化 2) 母とともに函館に移住。
1849年(嘉永 2) 函館の荒物商に奉公に出る。
1857年(安政 4) 大館に戻り、呉服小間物屋“ 松前屋” を開く。
1889年(明治22) 大館町議会議員になる。
1905年(明治38) 家督を養子鉄蔵に譲り隠居。
1910年(明治43) 栗盛教育団を設立し、奨学金貸与などの育英事業開始。
1914年(大正 3) 死去。

明石 文治:あかし ぶんじ(1885~1938)

明石 文治の写真

慶応義塾を卒業後、扇田にもどって「明石小作会」を結成し、品種改良に取り組んだり、農家の青年に、先進地を視察させるなどしました。また、経営の合理化を図るために、自分の所有地の耕地整理もしました。
柔道ニ段でもある文治は、一心館道場を開き、講道館師範館主の嘉納治五郎らを招くなどして柔道を広めることにも力を入れました。門下生は数百人にもなったといいます。
さらに、町議会議員など町の重要な役を20年余りつとめて、教育振興にも力を尽くし、扇田小学校に校地をおくりました。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表無し