狩野 良知:かのう よしとも(1829~1906)
藩校明徳館に学び、その後当時の最高学府である昌平黌で学びました。1858年には、幕府の鎖国政策を批判した『三策』を執筆しました。「上策」は交易を通じ、外国文明を取り入れて世界の動きを知ること。「中策」は軍隊を充実させ、港を封鎖し外交を拒絶して外敵を撃退すること。「下策」は外国人のおどしを受けて何もしないでいること。「上策」が最高の策で、「中策」はやむを得ず行う策であると結論づけました。1868年に、この『三策』は吉田松陰が開いた松下村塾から出版されています。
戊辰戦争では、大館城代の家老として本荘に進軍しました。1874年内務省に入り、退官後は秋田に帰り文筆の面で活躍しました。秋田市の「千秋公園」の命名者としても有名です。
年 | できごと |
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1829年(文政12) | 大館市三ノ丸に生まれる。 |
1858年(安政 5) | 『三策』を執筆。 |
1868年(慶応 4) | 戊辰戦争で大館城代の家老として本荘に進軍。 |
1874年(明治 7) | 上京し、内務省に入る。 |
1886年(明治19) | 退官して秋田に帰り、文筆面で活躍。 |
1906年(明治39) | 死去。 |
狩野 亨吉:かのう こうきち(1865~1942)
帝国大学(現在の東京大学)を卒業後、金沢の第四高等中学校で教授を務めました。その後、熊本の第五高等学校を経て、34歳の若さで第一高等学校の校長になりました。1906年、初代の京都帝国大学(現在の京都大学)文科大学長になり、内藤湖南や幸田露伴ら民間の優秀な人材を招き、大学の発展に尽くしました。
1899年、安藤昌益の『自然真営道』の写本を発見し、ひそかに研究を続けました。1908年、『内外教育評論』に「大思想家あり」を発表し、安藤昌益を世に紹介しました。1928年には岩波講座『世界思潮』に「安藤昌益」を発表し、その思想を詳しく紹介しました。
夏目漱石と親しく、名作『我輩は猫である』の猫の飼い主の苦沙弥先生のモデルになった話は有名です。また、東北大学図書館の「狩野文庫」は亨吉の収集した蔵書です。
年 | できごと |
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1865年(慶応元) | 狩野良知の二男として大館市三ノ丸に生まれる。 |
1876年(明治 9) | 父良知が内務省出仕のため、家族で東京に移住。 |
1888年(明治21) | 帝国大学理科大学数学科(現在の東京大学)を卒業。 |
1891年(明治24) | 帝国大学文科大学哲学科(現在の東京大学)を卒業。 |
1892年(明治25) | 金沢の第四高等中学校教授に就任。 |
1898年(明治31) | 東京の第一高等学校長に就任。 |
1899年(明治32) | 安藤昌益の著書『自然真営道』の写本を発見。 |
1906年(明治39) | 京都帝国大学文科大学長に就任。 |
1908年(明治41) | 『内外教育評論』に「大思想家あり」を発表し、安藤昌益を紹介。 |
1928年(昭和 3) | 岩波講座『世界思潮』に「安藤昌益」を発表。 |
1942年(昭和17) | 死去。 |