安藤 昌益:あんどう しょうえき(1703~1762)
1732年に京都で医学修行を開始し、3代目味岡三伯に師事しました。1744年に八戸に移住し、町医者をしながら、平等な社会を求める独自の思想を生み出しました。
昌益は代表的著作である『自然真営道』の中で、江戸幕府を頂点に武士が他の身分を支配する現実の社会を批判しています。そして、すべての人が自然の中で農耕を行って生活をすることにより、貧富の差も支配関係もない平等な社会が実現すると述べています。
1758年、昌益は妻子を八戸に残して、故郷である大館市二井田に移住しました。昌益の思想が村に広まり、村人は昌益を尊敬して寺や神社の宗教的行事を行わなくなりました。昌益の死後、昌益の門弟と寺や神社の間で争いがおこったという記録が残されています。2012年、墓が県指定史跡になりました。
年 | できごと |
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1703年(元禄16) | 大館市二井田に生まれる。 |
1732年(享保17) | 京都で医学修行を開始。 |
1744年(延喜 5) | 八戸に移住し、医院を開業。 |
1752年(宝暦 2) | 稿本『自然真営道』の執筆を開始。 |
1753年(宝暦 3) | 刊本『自然真営道』を発行するも発行停止。 |
1754年(宝暦 4) | 刊本『自然真営道』が改版され再発行。 |
1758年(宝暦 8) | 妻子を八戸に残し、二井田に移住。 |
1762年(宝暦12) | 死去。 |
中田 羽後:なかた うご(1896~1974)
大館市桜町に生まれ、4歳の時に、牧師である父の転任により東京へ移住しました。青山学院中等部を卒業後、アメリカに留学しました。帰国後に「メサイア」を最初に邦訳演奏し、『リバイバル聖歌』を出版しました。その後、再びアメリカに渡り、日本人初の音楽学士号を得て帰国しました。
業績は宗教音楽にとどまらず、NHK《みんなのうた》の第1回で放送され人気を集めた「おお牧場はみどり」の作詞も行いました。
晩年は青山学院大学や東京女子大学などで指導にあたり、教会音楽研究誌である月刊『聖歌の友』を創刊するなど、生涯を通じてプロテスタント宗教音楽の伝道と普及に尽くしました。
年 | できごと |
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1896年(明治29) | 大館市桜町に生まれる。 |
1915年(大正 4) | 青山学院中等部を卒業。 |
1921年(大正10) | 『リバイバル聖歌』を出版。 |
1927年(昭和 2) | 日本人初の米国音楽学士となる。 |
1932年(昭和 7) | 「東京ボランティヤ・コワイア」を組織。 |
1947年(昭和22) | GHQ東京チャペルセンター聖歌隊指揮者を務める。 |
1959年(昭和34) | 日本福音連盟聖歌委員会編『聖歌』編集委員長になる。 |
1967年(昭和42) | キリスト教文化協会よりキリスト教功労者表彰を受ける。 |
1969年(昭和44) | 月刊『聖歌の友』を創刊、主筆となる。 |
1974年(昭和49) | 死去。 |