佐藤 周子:さとう ちかこ(1938~1988)
大館市部垂町に生まれ、秋田高校から東北大学医学部に進みました。大学卒業と同時に結婚し、その1年後インターン終了時に同大学に放射線基礎医学教室が設けられると、科学者を目指して教室の助手になりました。
1970年から愛知県がんセンター研究所に勤務し、1985年には同センター初の女性管理職である研究所放射線部長となりました。
研究テーマは一貫して「細胞が放射線で死ぬのはなぜか」でした。放射線をあてるとがん細胞が死ぬのは、染色体が切断されるためと考えられていましたが、これ以外に細胞膜や細胞骨格などに異常が生じ、細胞分裂がうまくいかなくなることも原因であることを突き止めました。この研究成果は内外で高い評価を得て、1988年に優れた女性科学者に与えられる猿橋賞を受賞しました。
年 | できごと |
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1938年(昭和13) | 武田幾之助の長女として大館市部垂町に生まれる(父幾之助は、弁護士武田蘊蔵の弟)。 |
1944年(昭和19) | 城南国民学校(現在の城南小学校)に入学。 |
1946年(昭和21) | 教師である父の転勤により、岩手県花巻市に移住(のちに秋田市に移住し、明徳小学校に転入)。 |
1962年(昭和37) | 東北大学医学部を卒業。 |
1963年(昭和38) | 東北大学に放射線基礎医学教室が開設され、その助手になる。 |
1970年(昭和45) | 愛知県がんセンター研究所放射線部研究員になる。 |
1972年(昭和47) | アメリカのスタンフォード大学に留学。 |
1975年(昭和50) | 愛知県がんセンター研究所研究室長に就任。 |
1985年(昭和60) | 愛知県がんセンター研究所放射線部長に就任。 |
1988年(昭和63) | 猿橋賞を受賞。その1ヵ月後に死去。 |
鳥潟 隆三:とりかた りゅうぞう(1877~1952)
函館に生まれ、幼少期を函館で過ごした後に、大分中学校、第一高等学校、京都帝国大学(現在の京都大学)医学部へと進みました。1913年、スイスのベルン大学に留学し、「血清細菌学」を研究しました。「イムペジン学説」を提唱し、帰国後に鳥潟免疫研究所と附属病院を設立、この時期に外用薬「コクチゲン」(鳥潟軟膏)を発明しました。1922年、京都帝国大学教授になり、平圧開胸術を考案して肺結核外科手術を向上させました。
その後、日本外科学会会長に就任し、1945年から1947年まで疎開して故郷の花岡で暮らしました。1951年には、花岡の邸宅と庭園(現在の鳥潟会館)が当時の花岡町に寄贈され、一般の利用に開放されています。鳥潟会館は2011年3月に秋田県指定文化財に、庭園は秋田県指定名勝に指定されました。
年 | できごと |
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1877年(明治10) | 函館市に生まれる。 |
1904年(明治37) | 京都帝国大学(現在の京都大学)医学部を卒業。 |
1913年(大正 2) | スイスのベルン大学に留学、「血清細菌学」を研究。 |
1920年(大正 9) | 鳥潟免疫研究所と附属病院を設立。 |
1922年(大正11) | 京都帝国大学医学部教授に就任。 |
1927年(昭和 2) | 日本外科学会会長に就任。 |
1945年(昭和20) | 花岡へ疎開。 |
1947年(昭和22) | 脳出血で倒れ、大阪に戻る。 |
1951年(昭和26) | 花岡の邸宅と庭園(現在の鳥潟会館)を花岡町に寄贈。 |
1952年(昭和27) | 死去。 |