政治

小畑 勇二郎:おばた ゆうじろう(1906~1982)

小畑 勇二郎の画像

1924年に秋田中学(現在の秋田高校)を卒業後、早口小学校などでの代用教員を経て、早口村役場書記になりました。その後、秋田県庁に入り、民生部長、総務部長などを務めました。1951年、秋田県知事選挙に立候補しましたが落選、秋田市第一助役に就任しました。
1955年、秋田県知事に初当選し、以後6期24年間県知事を務めました。就任時には、10数億円といわれる県の累積赤字の解消のために、機構改革と500人の人員削減を行い、この問題を解決しました。その他の業績としては、「まごころ国体」と呼ばれた国体の誘致、八郎潟の干拓、秋田大学医学部の開設などがあります。また、自治体における「生涯教育」の実施を最初に提唱した人物としても有名です。このような業績から第1号の秋田県名誉県民に選ばれました。

小畑勇二郎 年表
できごと
1906年(明治39) 大館市早口に生まれる。
1924年(大正13) 秋田中学(現在の秋田高校)を卒業、早口小学校に代用教員として勤務。
1927年(昭和 2) 早口村役場書記になる。
1934年(昭和 9) 県書記になり、北秋田郡財務事務所に勤務。
1939年(昭和14) 秋田県庁に勤務。
1951年(昭和26) 秋田県知事選挙で落選、秋田市第一助役に就任。
1955年(昭和30) 秋田県知事に初当選、以後6期24年間知事を務める。
1981年(昭和56) 第1号の秋田県名誉県民に選ばれる。
1982年(昭和57) 死去。

畠山 重勇:はたけやま じゅうゆう(1895~1978)

畠山 重勇の画像

1921年、扇田に製材・土木建築請負の大葛産業株式会社を設立し、30年近く社長を務めました。また、炭谷鉱山の経営に参画していたことから、1940年に秋田県鉱業会会長に就任しました。戦後は、大葛産業の火災消失後に改めて大葛木材を起業したほか、石膏、清涼飲料水、牛乳などの分野に進出し、比内地方屈指の実業家になりました。
1939年の県議会議員選挙でトップ当選し、戦後も引き続き務めた後、1949年には衆議院議員選挙で初当選を果たしました。1963年からは比内町長を務め、のちに第1号の比内町名誉町民に選ばれました。

畠山重勇 年表
できごと
1895年(明治28) 大館市比内町大葛に生まれる。
1921年(大正10) 大葛産業株式会社を設立。
1939年(昭和14) 県議会議員に初当選。
1940年(昭和15) 秋田県鉱業会会長に就任。
1949年(昭和24) 衆議院議員に初当選。
1963年(昭和38) 比内町長に初当選。
1974年(昭和49) 比内町名誉町民第1号に選ばれる。
1978年(昭和53) 死去。

荒谷 桂吉:あらや けいきち(1853~1934)

荒谷 桂吉の写真

大葛金山の支配役を代々務め、その開発に力を注いだ荒谷家に生まれました。父の死によりわずか10歳で相続しましたが、5年後には支配役をやめました。
1880年に県議会議員に当選して通算14年務め、県議会議長も務めました。この間、秋田にも自由民権運動が広まり、仲間とともに自由民権を主張した秋田改進党をつくりました。また、1892年には民政党から衆議院議員選挙に立候補して当選しました。1904年には憲政本党(のちの国民党)から衆議院議員選挙に立候補して再び当選し、のちに内閣総理大臣となる犬養毅の参謀役として活躍しました。

荒谷桂吉 年表
できごと
1853年(嘉永 6) 大館市比内町大葛に生まれる。
1864年(元治元) 大葛金山の支配役を相続。
1869年(明治 2) 大葛金山の支配役をやめる。
1880年(明治13) 県議会議員に初当選。
1882年(明治15) 仲間と共に秋田改進党を結党。
1892年(明治25) 民政党に所属し、衆議院議員に初当選。
1904年(明治37) 憲政本党( のちの国民党) に所属し、衆議院議員に当選。
1912年(明治45) 政界を引退。
1934年(昭和 9) 死去。

石田 博英:いしだ ひろひで(1914~1993)

石田 博英

1939年、早稲田大学政経学部を卒業し、中外商業新報社(現在の日本経済新聞社)に入社しました。1947年、父の故郷である大館市へ戻り、日本国憲法のもとでの初の衆議院議員選挙に立候補して当選し、以来36年余にわたり国会議員として活躍しました。
1957年、岸内閣で労働大臣に就任し、以来池田内閣で3回、佐藤内閣で1回、福田内閣で1回と通算6期にわたり労働大臣を務めました。この間、大きな政治問題となった三池炭鉱争議やILO87号条約の批准問題に取り組みました。
バラの花を愛し、自宅の庭には世界各国の数百種のバラが植えられ、現在も「石田ローズガーデン」として市民に親しまれています。

石田博英 年表
できごと
1914年(大正 3) 能代市に生まれる。
1939年(昭和14) 早稲田大学政経学部を卒業、中外商業新報社(現在の日本経済新聞社)に入社。
1947年(昭和22) 衆議院議員に初当選。
1956年(昭和31) 石橋内閣で官房長官に就任。
1957年(昭和32) 岸内閣で労働大臣に就任、以来通算6期労働大臣を務める。
1976年(昭和51) 三木改造内閣で運輸大臣に就任。
1983年(昭和58) 政界を引退。
1993年(平成 5) 大館市民栄誉賞を受賞。死去。

佐藤 敬治:さとう けいじ(1920~2009)

佐藤 敬治の画像

東京帝国大学(現在の東京大学) 在学中に学徒出陣のため、満州国に出征しました。卒業後は家業を手伝い、1949年に大曲高等女学校(現在の大曲高校)の教諭になりました。
1951年、大館町と釈迦内村が合併して誕生した人口30,056人の大館市の初代市長に当選し、当時「日本一小さい市の全国最年少市長」となり、以後4期16年間市長を務めました。在任中は3度の大火があり、その復興と都市の整備に尽くしました。また、1955年には、周辺の十二所町・長木村・上川沿村・下川沿村・真中村・ニ井田村との合併を実施し、大館市の人口は56,673人になりました。
1972年には社会党から衆議院議員選挙に立候補して当選し、通算6期20年務めました。

佐藤敬治 年表
できごと
1920年(大正 9) 大館市栄町に生まれる。
1949年(昭和24) 大曲高等女学校(現在の大曲高校)の教諭になる。
1951年(昭和26) 大館市長に初当選、以後4期16年間市長を務める。
1955年(昭和30) 大館市と周辺の6町村の合併を実施。
1972年(昭和47) 衆議院議員に初当選、以後通算6期務める。
2009年(平成21) 死去。

横山 助成:よこやま すけなり(1884~1963)

横山 助成の画像

1909年に東京帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業し、内務省に入り、山梨県を振り出しに全国各地を巡って職務にあたりました。
1923年に岡山県知事に任命され、その後、石川・広島・京都・神奈川・東京の各府県知事を務めた後、警視総監になりました。1939年には貴族院議員に任命されました。
岡山県知事時代の1924年、衆議院議員選挙に与党から推されて立候補しました。護憲三派が推す町田忠治との一騎打ちの末、4194票対4073票、わずか121票の差で敗れました。この選挙は全国的に護憲三派が圧勝し、のちに第二次護憲運動と呼ばれる出来事でした。
死後、遺族から故人の遺志として大館市へ横山児童公園(柳町児童公園)が寄付されました。

横山助成 年表
できごと
1884年(明治17) 横山勇喜の二男として大館市長倉町に生まれる。
1909年(明治42) 東京帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業、内務省に入る。
1923年(大正12) 岡山県知事に任命される。
1924年(大正13) 衆議院議員選挙に立候補、落選。
1937年(昭和12) 警視総監に任命される。
1939年(昭和14) 貴族院議員に任命される。
1941年(昭和16) 大政翼賛会事務総長に就任。
1946年(昭和21) 貴族院議員を辞任。
1963年(昭和38) 死去。

吉田 季吉:よしだ すえきち(1892~1976)

吉田 季吉の写真

1956年(昭和31年)9月に早口町と山瀬村が合併して田代町になったとき、初代町長となりました。以来3期12年間、田代町長を務めました。
1970年(昭和45年)には、勲五等瑞宝章を受賞しました。これらの、数々の功績に対して旧田代町の第1号の名誉町民称号がおくられています。
(平成23年4月 大館市教育委員会発行 小学3・4年社会科副読本「わたしたちの大館市」より)

※年表は無し