古代の大館

大館市を東西に貫流する米代川と、それに注ぐ中小河川の流域には河岸段丘がよく発達し、古くから人々の生活の場として利用されてきました。東北地方に米作りの農耕生活が定着する8世紀から9世紀頃は、大館地方はいわゆる「蝦夷」の地でした。
元慶二年(878)秋田城司の苛政に対し、上津野かづの(鹿角)、火内ひない(大館)、椙淵すぎぶち(北秋田)ら、米代川流域と八郎潟周辺の十二ヵ村が連合して秋田城を襲い、雄物川以北の自治と中央政府の不介入を要求しました。これが、大館地方が歴史の書物(日本三代実録)に初めて登場する「元慶の乱」です。
当時、この地方は火内(比内)と呼称されていました。その後、11世紀から12世紀には安倍・清原・藤原といった有力豪族が東北地方に強大な支配権を確立し、大館地方は藤原氏政権下では河田氏が「にえ柵」を本拠に支配していました。
文治五年(1189)藤原泰衡は源頼朝の征討を受け、夷狄島(北海道)に逃げる途中、数代の郎従である肥内郡「贄柵」の河田次郎を頼りますが、河田は泰衡を謀殺し、その首を頼朝に届けました。頼朝は不義不忠の臣として河田を斬罪に処し、大館地方は支配者を失いますが、頼朝は甲斐国浅利郷を本拠とする鎌倉御家人浅利太郎冠者義遠に、大館地方一帯の地頭職を与え、支配させました。

古代の暮らし

大館では奈良時代の遺跡が1ヵ所、平安時代の遺跡が約90 ヵ所確認されていますが、10世紀以前の遺跡は扇田道下、山王台などの数ヵ所が確認されているだけです。発掘調査すると十和田火山起源の火山灰が堆積しているのをみることができます。
10 世紀をむかえると遺跡の数は急増し、家数も大規模になります。代表的なムラが大館野遺跡で、数十軒の家が建ち並び、鉄を生産し、煮炊きには土師器を、貯蔵には津軽の五所川原産の須恵器を使っていました。


大館野遺跡遺構分布図

製鉄炉跡掘立柱倉庫跡1

製鉄炉跡掘立柱倉庫跡2
製鉄炉跡掘立柱倉庫跡

展示品の紹介

品名:須恵器 長頸壺

遺跡名:大館野
15.3φ×35.0(cm)

頸に「上」の刻字あり。

須恵器 長頸壺

品名:鉄鏃

遺跡名:塚ノ下
(大)
8.5×2.0×0.5(cm)
(中)
8.1×1.9×0.6(cm)
(小)
5.1×1.2×0.4(cm)

鉄鏃

品名:鉄製鋤先

遺跡名:餌釣館
16.2×14.6×0.4(cm)

鉄製鋤先

品名:土師器 小型甕

遺跡名:大館野
12.0φ×12.5(cm)

土師器 小型甕

品名:土師器 小型甕

遺跡名:大館野

土師器 小型甕

品名:土師器 小型甕

遺跡名:大館野
13.0φ×13.3(cm)

土師器 小型甕

品名:曲物

遺跡名:道目木
平安時代中頃
12.6φ×8.7(cm)

915年の十和田火山、毛馬内火砕流による火山泥流堆積物で埋没した家屋から出土した。
天然杉柾目材を使い、胴部は桜皮(樺)で閉じられ、胴と底は木釘で止められている。

曲物