近世の大館

近世

慶長七年(1602)徳川家康は諸侯の改易転封を決定し、秋田氏を常陸の宍戸へ、常陸の佐竹氏を秋田へ転封しました。大館城下絵図

佐竹義宣は赤坂朝光に大館城接収を命じますが、旧浅利家臣の一揆がおこり、小場(おば)義成がその鎮圧に出動しました。慶長十五年(1610)、義成は旧浅利勢力を押さえ、津軽・南部の国境を固めるために正式に大館城主として入城しました(小場氏はのち佐竹姓を名乗ることを許され、佐竹西家と称します)。

大館城は、元和六年(1620)の領内支城破却の際、横手城とともに「所預」として残置が認められました。
大館町は、延宝三年(1675)の大火後に本格的な町割りが行われました。内町(武家町)と外町(農・商家町)に区画し、道路は碁盤目状を基調に所々に升形や袋小路をつくり、寺社は町の外郭に配置し、外町の要所14カ所に木戸を設けるなど、城下町としての町構えが完備されました。

大館地方の重要な産物である山林資源は、延宝五年(1677)南部藩との領域問題が決着し、豊富な杉の山林をもつ長木川流域から大量の木材が杣出し(そまだし)され、藩の財政を潤しました。しかし、次第に山林の荒廃が目立つようになり、藩は数度の林政改革を行って山林を保護育成しました。

寛政五年(1793)には大館に郷校・博文書院、十二所に郷校・成章書院が設立され、武士、後には庶民の入学も許され子弟教育が行われ、明治初期の廃校まで多くの人材を輩出しました。

慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いを発端に戊辰戦争が起こります。大館地方は同年8月9日、楢山佐渡の率いる南部軍の十二所、長木口攻撃により戦場と化しました。同年8月21日、いよいよ現大館市内での最後の攻防戦となりました。一旦は城に火を放って退城した秋田側でしたが、同年9月6日、弾薬不足となった南部軍は夜明け前に大館城から引き上げていきました。
明治元年(慶応四年九月八日改元)9月25日の南部軍降伏までの戦いで、大館城をはじめ大館の町屋は兵火に罹り、町屋29軒を残すのみで、文物ことごとく烏有に帰しました。

大館佐竹家

慶長7年(1602)、徳川家康の命により常陸国(今の茨城県)から秋田へ国替えとなった佐竹義宣に従い秋田入りした小場義成(義宣の従兄弟)は、慶長15 年(1610) 正式に大館城代となりました。
義成を初代として、3代義房の時から佐竹姓を名乗るようになり、6代義村の時「西家」の称を許され、以後「西家」や「お西様」と呼ばれるようになりました(常陸時代、本城から見て小場城が西に位置していたため)。

大館佐竹家の歴代系図

十二所茂木氏

佐竹氏の秋田転封により、慶長15 年(1610) 大館城代には小場義成が任命され、南部藩との境の要衝である十二所城にも城代が置かれました。元和元年(1615)、幕府から一国一城令が出されたため元和6年に十二所城は破却、居館「再来館」として改築され、この時から城代の呼称も「所預」となりました。

天和3年(1683) に茂木(もてぎ)知恒が所預に任命され、貞享5年(1688) に居館「再来館」は城下町北側の一画に移築されました。茂木氏は以降、明治2年(1869) の版籍奉還による解任までの10 代187 年間にわたり代々十二所所預を務めました。十二所士族屋敷絵図

右の画像の絵図は、明治5年(1872) 新政府が士族確認のため十二所戸長に提出させた絵図の控えです。本丸跡や、郷校・成章書院跡、御境御番所跡などが記載されており、当時の十二所町の様子が分かる貴重な資料です(大館市指定文化財)。

近年、茂木氏の屋敷「再来館」があったとされる場所に公民館が建設されることになり、事前の発掘調査が平成21・22年に行われました。
この調査では、礎石建物跡1棟、掘立柱建物跡15 棟、井戸跡3基、塀跡、門跡、土坑、溝跡などが見つかりました。調査により出土した陶磁器類は主に16 世紀末から19 世紀のもので、とくに17 世紀代が多く出土しています。陶磁器は肥前(現在の佐賀県と長崎県の一部)産が最も多く、ほかに京焼・瀬戸美濃産などがあります。
また、当時高価だった中国の景徳鎮窯(けいとくちんよう)、漳州窯(しょうしゅうよう)産の磁器や肥前産の磁器が出土しており、屋敷を造営した茂木氏の社会的地位の高さがうかがえます。そのほか土製品(貝風呂、土鈴、レンガ)、かわらけ、石製品(焜炉、硯、砥石)、銭貨(寛永通宝)、木製品(下駄、漆器椀、羽子板、箸)などが出土しました。

戊辰戦争


茂木屋敷跡

慶応4年(1868)1月、戊辰戦争が勃発し、東北地方も戦渦に巻き込まれました。
奥羽越列藩同盟を離脱した久保田藩に対し、8月9日南部藩が宣戦布告をし、大館地方も戦場となりました。南部軍は鹿角街道口などから攻め入り、圧倒的な兵力の差により、十二所の茂木軍、大館の佐竹軍は敗れました。8月22日大館城は落城し、大館・扇田・十二所の町は灰燼に帰してしまいました。
新政府軍の援助を受け、9月6日大館城を奪還するも、この戦争により多大な損害が生じました。


戊辰戦争関係要略図

展示品の紹介

品名:磁器 鉢

遺跡名:茂木屋敷跡
17.0×5.4(cm)

漳州窯産

磁器 鉢

品名:磁器 皿

遺跡名:茂木屋敷跡
器高1.0cm

漳州窯産

磁器 皿

品名:木製品 下駄

遺跡名:茂木屋敷跡
21.7×7.1×1.8(cm)

木製品 下駄

品名:鸞斎書「六曲一双屏風」

171.5×370.0(cm)
右隻
1848(嘉永元)年

第10代大館城代佐竹義茂(号を鸞斎あるいは此君斎)は、幼少のころより学問を好み、漢詩をよくし、特に大窪詩仏を慕う風の詩を残した。また、書を秋田の大書道家、石田無得に学び、能書の誉れ高い人物でもあった。他にも多くの書を残している。
備考:大館市指定文化財

鸞斎書「六曲一双屏風」

品名:榴弾

短径3.7×長径8.7×高さ18.0(cm)
重さ 4.3kg

昭和25年頃、桂城公園の「お堀」再生事業として行われた泥上げ作業の際に発見された。
弾は幕末時、柘榴(ざくろ)弾・炸裂弾と呼ばれていた種類のもので、使用された形跡がなく、戊辰戦争中に何らかの事情により破棄された可能性が高い。

榴弾